日吉神社連合祭典とは

 日吉神社の社伝によれば、八〇七年、近江国の日枝大社より分霊され、鴇ヶ嶺(現在の山王台公園)に山王大権現が造られたと言われています。

それが現在の場所(大豆谷大宮台)に遷されたのは一三八七年のこと。

伝承では和泉が池で蛇身に姿を変えた娘の怨霊が人々を苦しめるのを鎮めるために社を移したと言われています。

 日吉神社の大山咋命(おおやまくいのかみ)は里山の神であり、治水を司る神であるとされており、和泉が池は眼下の町村にとって大切な貯水池の役割をしていたと思われます。
 一五二一年、田間城から東金城へ入場した酒井氏が山王大権現を崇めたことで、城下東金郷六ヶ村(大豆谷、台方、辺田方(上宿、谷、岩崎、新宿)、掘上、川場、押掘)の総鎮守の神様として崇敬を集めることになりました。

 日吉神社の正面には日枝大社の神使である猿の像が一対あり、一六九五年に奉納されました(現在は二代目)。

高さは四尺強、体は正面を向き、顔は本殿を向いています。昔から体の悪い所と神猿の体とを摩ると良くなると言われており、氏子・崇敬者から愛されています。参道は大杉並木の荘厳な雰囲気が参拝者を魅了しています。

 徳川家康は征夷大将軍になったとき太田道灌が信仰していた日枝大社の御加護を求めて分霊を江戸城に移したそうです。

家康は二度にわたって東金の地を訪れていますが、その際に東金の日吉神社に参拝して武運長久、国家安泰、そして自らの健康を祈願されたと伝えられています。

江戸城の産土神として大山咋命が祀られていたこともあって、山王大権現は家康にとっても特別に親しみがあったのであろうと言われています。

現在の御本殿は、大阪の陣を終えて再び鷹狩りに来た家康が、大願成就の御礼として東金代官高室金兵衛に改築を命じて建立させたものとのことです。

 明治初めに山王大権現は社名を日吉神社と改め、鴇ヶ嶺の社のほうは古山王神社として現在に至っています。

 家康の東金御殿の庭池だった現在の八鶴湖と同様に完成四〇〇年の歴史をもつ雄蛇ヶ池は、この日吉神社とも深いつながりがあります。

ある時ひどい旱魃に悩まされていた東金の人々が、代官の嶋田以栢に水利を求める陳情をしました。以栢は雄蛇ヶ池の建設を決断し、東金の人々は皆で資金を出し合って山口村に代替地を用意し、養安寺村の人々に立ち退いて貰うことになりました。こうして東金の人々が雄蛇ヶ池を管理するようになったのですが、養安寺の村人が雄蛇ヶ池を埋め立てようとしたことで水利論争が発生。やがて事件は収束に向かうのだけれど、円満解決に至ったのは山王様(日吉神社)の御神徳によるものだということで、一六六三年に東金六ヶ村は神幸祭に併せて連合祭典と称して荘厳な神輿の渡御、そして山車・屋形の運行を行うようになりました。一説によると市中を巡行する山車・屋形は雄蛇ヶ池からの水路の流れに沿って移動するのだともいわれています。

 かつて江戸の山王祭は、神田明神祭とともに天下祭りとして、隔年ごとに江戸城内に入り将軍の目を愉しませていました。御成街道の開通とともに商業の町として栄え、東金の人々は、盛大な江戸山王祭の影響を受けて祭りをより華やかにしてきたのでしょう。
 江戸時代の東金の山王祭(現在の日吉神社連合祭典)は、寺社奉行管轄におかれていて、板倉藩東金代官や下三区(堀上・川場・押掘)の大久保駿河守など地元を治める大名を中心にして農民や町人すべてが祭りに携わっていたと考えられています。江戸の情緒を色濃く残し、独自の発展をしてきた東金日吉神社例大祭。神輿の渡御で禰宜が烏帽子、白帳、白足袋を着用し、神輿警護の役員や区境の儀礼の際の役員は紋付羽織袴の着用が義務付けられており、こうした江戸時代の格調高いしきたりが今日にも残されているのです。

 連合祭典は二年に一度開催されてきましたが、ここ何年かは台風の直撃やコロナ禍等で開催されない年が続き、今回は実に十年ぶりの開催となりました。

祭りは様々な儀礼・風習・芸能を次世代に伝承する場でもあるため、未来に残していきたいという想いはある一方で、その時その時の事情に併せて柔軟に変化していく部分も必要となってきます。

 今回の連合祭典ではこれまでと異なり、実行委員会という形式をとって、積極的に行政や観光協会、商工会議所、商店街、大学などに協力を仰ぎ、街をあげて祭りを盛り上げる体制を整えました。また、これまで七月に開催していたものが十月開催としました。こうした変化によって、より多くの市民が祭りを見て、参加して楽しむことができるものと期待されています。

 日吉神社例大祭一日目は、夕方になって各地区で巡行を終え、これまで大豆谷の厳島神社に集まっていた山車・屋形が八鶴湖畔に集まって来て湖畔でお囃子の競演を楽しむことができます。
 厳島神社における伝統的な儀礼としては、従来通り神輿(しんよ)を迎え、各地区から厳島神社勢揃いした代表者らが「提灯交わしの儀」を行うことになっています。
 山車・屋形に掲げられる提灯は地区ごとに豆(大豆谷)、臺方青年会(台方)、青「と」(上宿)、赤「と」(谷)、黒「と」(岩崎)、薄墨「と」(新宿)、赤「ほ」(掘上)、青「か」(川場)、黒「於(お)」(押掘)と書かれています。祭りでは二年に一度この提灯を交換して、村々の絆を確かめ合うのです。ちなみにこの提灯の文字の色は中国の四神、青竜(東)・朱雀(赤・南)・白虎(西)・玄武(北)に由来するとも言われています。すべての地区が互いの提灯をひとつずつ交換し終えると、各々の山車・屋形の前面に各地区の提灯が一つずつ揃った状態になり、「連合祭典」の準備が整います。(懐かしい写真を見ても提灯を見れば一日目か二日目か一目瞭然で分かります。)
 二日目は九台の山車・屋形が列をなして市中を巡行します。連合祭典の終盤に、互いの提灯を返すためにふたたび提灯交換の儀礼を行い、山車・屋形はそれぞれの村に帰って行きます。

 祭りの最中、区境で行われる挨拶の儀ではハガチと呼ばれる担ぎ手が山車・屋形を後輪で支えて前方を持ち上げたり下ろしたりしながら、さらにそれを回したりと、独特な演出が見られとても勇壮です。

これは、【東金形】と分類される全国でも稀な機能をもつ山車・屋形によるものです。狭い路地も入れるように進化してきたものだと考えられています。

 これらの山車・屋形は九区それぞれ大切に保管され、お祭りのときにお披露目されます。かつて東金の町には、房総の寺社建築に名を残した伝説の宮大工『大木茂八』という人物がいて、代々その弟子たちが山車・屋形を手掛けてきたといわれています。

 連合祭典では、こうした文化財ともいえる貴重な山車・屋形が八鶴湖をはじめ商店街、田園地帯や振興のショッピングエリアなどを列を連ねて華麗に巡行する、いかにも東金らしい写真映えする光景をたくさん見ることができます。
 山車・屋形の上で奏でられる下方(したかた)・下座(げざ)のお囃子も見どころのひとつ。かつての東金には華やかな花柳界があり、長唄をたしなむ人が多く、芸者さんなどもお祭りに参加したといわれ、長唄三味線や、歌舞伎などで使われる高価な能管などを使ったレパートリーもあります。山車・屋形で奏でられる「四丁目」「通り囃子」などは、千葉県指定無形民俗文化財にもなっています。